罪のないものだけが石を投げよ

人は倫理に基づいた人生を送っている。

やっていいこと、悪いことは成長している間に学んでいっている。

だから大人は「おとな」になれるんだって思っていた。

 

ところがどうだ。

どこに「おとな」がいる?

みんな自分勝手で、人を傷つけて気持ち良くなっている。

しかも、隠れてこそこそと。

その行動を非難されるようになると、「そんなつもりじゃなかった」とか言い訳をしだす。

 

それは、みんなが形のあるもの、分かりやすいものを崇拝するようになったからなのではないだろうか?形のない、「こころ」を大切にしなくなったからではないだろうか。

 

でも、私はそんな人たちを非難することはできない。

だって自分だってそんな人間の一人だから。

でも、このままではいたくない。

だって、それじゃ私の子供たちが同じ過ちを犯してしまうから。

そんなこと絶対避けたい。

 

最近、不祥事を起こした世間的に目立つ人々をよく見るけれど、

そんな人を見て怒るのはやめた。

なぜなら私にはその資格がないから。

 

「罪のないものだけが石を投げよ」

これは聖書に出てくる神の子の言葉だ。

姦淫の罪を犯した女を裁く場面で試された神の子が人々を諭した言葉である。

誰だって一つくらい罪を犯している、大なり小なり。

そんなあなたが人を責められるのだろうか。

ちなみにこの場合、放っておくとその女性はみんなに石を投げつけられ殺されていた。

あなたに人の命を左右する権利があるのだろうか。

 

(正直なところ、凶悪犯に関しては賛成できないけれど。)

 

人を非難する前に、一度あなたの人生を振り返って冷静になれば、人の命を奪うこともなくなるだろう。

その人の罪だって、考えてみたら本当はそんなに大きなものではないかもしれない。

聖書の「姦淫」は、実際行うことだけを指すのではなく、想像することにも適応される。

「あの人とあんなところでこんな風に…」

と想像しただけで「姦淫」の罪を犯したことになるのですよ?

それで石で撃たれて死ぬのはあまりにもひどいとおもいませんか?

そう思えば、あなたがいま非難しようと思っている人の罪は実はたいしたことではないと気が付くかもしれない。非難にすら値しないかもしれない。

 

「おとな」とは、ただ年を重ねればなれるものではない。

人の喜びや悲しみを感じ取ることができ、共感できる人だと私は思う。

誰かに腹を立てた時、自分が人を裁ける「おとな」なのかも今一度考えてほしい。

「罪を憎んで人を憎まず」という素敵な言葉もある。

これ以上、人を憎んで非難して追い詰めることをやめてほしい。

 

体の傷は癒えても、心の傷は癒えることは無いのだから。

心の傷が引き起こす、あの結末…